人に話すことは人間の特権

誰もが思い通りにいかないものです。それは仕事にしても、日々のちょっとしたことにしても同様で、自分が一番良いと思うようなカタチでは、なかなか物事は進みません。

私たちは有史以来「言葉」を使いこなして生きてきました。言葉は物事を自分の心から外に出すための媒介のようなものです。言葉にした瞬間から、自分の考えていることや気持ちが、他人が理解できる形で具現化され、誰かに「伝える」ということが可能になります。言葉があることで、私たち人間のコミュニケーションは一気に利便性を増したといえます。

私たちは不快に思っていることや悩みを誰かに伝えることができます。それは「言葉」で表し、相手がそれを捉えて理解した瞬間に成立します。ただ、気持ちや思いというものはなかなか言葉だけで表すことは難しいものです。「嬉しい」といった感情や「悲しい」といった感情は、言葉にしてしまうと一言で終わってしまうのですが、その気持ちを抱くようになった背景や事情を勘案しなければ正確にはその気持ちを共有することはできないものです。

そのために人はただ「嬉しい」とか「悲しい」と伝えるだけではなく、どうしてそのような気持ちを抱くようになったのかという「背景」を語ることになります。このようにしてより詳しく、相手が理解できるように語ることで自分の心の内側を相手にしってもらうことができます。相手に知ってもらうことで、自分だけで抱えていた悩みや問題を、相手に「共有」することができるのです。

「こんな境遇でいるのは自分だけだろう」とか、「誰もわかってくれないだろう」というような状態では、いつまでたっても自分の心は救われないままです。同じ物事でも違う人が見れば違うように見えるものです。同じ言葉でも違う人が聞けば違うように聞こえるものです。「人によって違う」から、この世界は多様性を保っています。それぞれが違うから、コミュニケーションが面白いのです。「人を知る」ことが面白いのです。

人に自分の境遇や問題、気持ちを話した後に、もし相手が共感してくれたり理解してくれたりすれば、その時には「孤独」から開放されることになります。「自分だけしかわからない」とか「誰もわかってはくれない」といった状態では、あまりにも精神的な負荷がかかります。なによりも「自分もそうだったよ、わかるよ」と言って貰えれば、同じような問題を抱える人がどのようにして克服したのかという「救いの道」が眼前に開けるのです。

一番悪いのは、「どうせだれもわかってくれない。自分だけでどうにかするしかない」というように塞ぎこむことです。せっかく使いこなしている「言葉」です。言葉を用いれば私たちはどのようなことでも相手に伝えることができるのに、それをしないで自分の胸のうちにだけしまっておくということは、実はもったいないことなのです。

せっかく得た言葉です。そしてそれによって私たちは豊かな精神性を得ているのです。言葉によって傷ついたり、逆に心が癒されたりするほど、私たちは言葉と共に生きています。思考の媒介が「言葉」である以上、それから逃れることはできないのです。私たちの特権である「言葉」。それを使いこなすことで、少しは気持ちを楽にすることもできるのです。

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