定量化された人の気持ち

18歳未満の人は見てはいけないもの、15歳未満の人は触れてはいけないもの、さまざまな規制が世の中にはあります。スタンスとしては成人していなければその人たちは「守り育てる」対象です。教育的によくないとされるものは、規制されます。

ですが人はそれぞれです。人は自分の意志を自由に持つことができます。自由に思索することができます。未成年であってもハイティーンになれば、自分の考えを持つことになるのです。それでも「規制」があったりするのは「情報と人の気持ち」がある程度「定量化」されているからです。「これは悪影響だ」であるとか、「これは刺激が強い」であるとか、そのようなことです。

テレビ番組などでテロップが入ることがあります。「一部衝撃的な映像が」であるとか、「一部グロテスクな表現を含んでいます」というような内容です。それはそれらの情報が人に不快を与えるかもしれないと考えられたから入れられる注意書きです。私たちが普段目にしているものの全てが「健全」であるかどうかは別にして、少なくとも本能的に「嫌悪」する情報というものはあります。

それは同族の「血」であったり、生理的に嫌悪と恐怖を感じるような情報です。私たちは「痛み」を知っています。痛みに対して恐怖します。「痛み」の先にあるのは身体の負傷でもあります。そして「死」です。私たちは、私たちだけでなくすべての生き物は、「生きる」ことを本能的に求めているのです。だからこそそのようなことに直結する表現は「怖い」のです。だからあえて「見たくない」のです。

それらの気持ちは誰もが持っています。「誰もが持っている」とわかっている事自体が、「定量化」されていることでもあります。食事中に汚いものを見たくないということも同じです。「誰もが嫌がる」こと、「誰もが避けたい、見たくない」ことは、情報として取り扱いに注意が必要なのです。

なにか凄惨な事件の被害者になること、それに関わることは、可能性としては低いものです。普段は何事もなく暮らしている人ほど、そのようなことが「怖い」のです。だからそのようなことに遭遇してしまうと、「耐性」がないのです。耐性がないから、トラウマになってしまうのです。その後も残ってしまうのです。「PTSD」とはそういうことです。

想像もしていなかった事態、普段なれていない環境は、とてもストレスになります。そうなることがわかっています。それは「誰もが同じ」なのです。誰もが同じで、そうなってしまったことがある人もいるわけです。そして、そのような状態から復帰した人もいるのです。沢山いるのです。それらのプロセスは統計され、解析され、資料として、叡智として残っています。だからカウンセリングが可能なのです。「みんな同じですよ」といってもらうことだけでも人はいくらか楽になります。私たちの心はそれぞれバラバラですし、多様性があるから素晴らしいのですが、その反面「誰もが同じ」ということも多いのです。それは同じ種族として救わることでもあります。私たちの叡智は人の心を救える知識も含んでいるのです。カウンセリングを受けることは恥ずかしいことではありません。多くの人が、カウンセリングを経て自分を取り戻しているのです。

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